2016/07/17(日)に訪れた。
旧本山炭鉱斜坑坑口は、本山炭鉱の跡なんだとか。
写真は後日掲載します。
山陽小野田市 旧本山炭鉱斜坑坑口 2016/07/17 15:03:20
〒756-0817 山口県山陽小野田市小野田214−6
きゅうもとやまたんこうしゃこうこうぐち
山陽小野田市 旧本山炭鉱斜坑坑口 2016/07/17 15:05:45
〒756-0817 山口県山陽小野田市小野田214−6
きゅうもとやまたんこうしゃこうこうぐち
貴重な建物です。
草刈りして欲しいです。
周辺に関連したものが残っているので、後日訪れてみようと思う。
旧本山炭鉱斜坑坑口
印刷用ページを表示する 掲載日:2011年4月1日更新
名称
旧本山炭鉱斜坑坑口
所在地
山陽小野田市大字小野田214番地4(大須恵)
地図はこちらから
概要
この坑口は、大正6年(1917年)に坑道として設けられ、昭和16年(1941年)に完成し、昭和38年(1963年)3月に坑口を閉鎖するまで使用された。坑道は沖合約3km、最深部約200m、総延長約19kmに及んでいる。形状は鉄筋コンクリートづくりで側面は石組。特徴は坑口の忍返である。
市指定文化財。(平成10年3月23日指定)
アクセス方法
本山口バス停留所より徒歩1分
http://www.city.sanyo-onoda.lg.jp/site/bunkazai/40655.html
http://sawagikyou.holy.jp/nature/field/02_motoyamaMisaki/area_99.html
本山海底炭鉱第一斜坑坑口跡(山陽小野田市)
掲載日:2011/05/04
本山公民館のすぐ近くに、本山海底炭鉱の斜坑坑口跡があります。 近くに行ったら、ついでに見に行ってみるのもいいかも?(いろんな意味で…)
ここにあるのは第一斜坑坑口跡だそうですが、第二斜坑坑口の方はもう潰されてしまっているようです(本山岬公園の入口にあるバスの回転所が、第二斜坑坑口跡なんだそうです)。
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場所の大雑把な説明
本山公民館の前の道を、本山岬公園方向に向かって進みます。 すぐに4つ辻があるので、これを右(海岸側)に曲がります。
『本山口』バス停が目印になります(写真右側)
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4つ辻を右に曲がったところです。
写真の奥左手に、公園っぽい場所がありますよね(フェンスがあって植木が植えてある場所)。
そこが目的地です。
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斜坑坑口跡の様子
海底炭鉱の入口である斜坑坑口が口をあけています。 とは言っても、コンクリートで塞がれていますが^^;
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すぐそばに立て札が立ててあり、歴史的経緯の説明が書かれています。
当然ですが、周囲はフェンスで囲まれています。
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斜坑坑口跡を横から見たところです。
坑口跡の石垣が残されています。
「地の底に続いている」という雰囲気くらいは味わえるのではないかと…。
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こちらは後ろから。
地の底へと続く入口の跡ですから、地上部分はこんなものですね^^;
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http://hasiru.net/~maekawa/mine/ube/motoyama.html
本山炭鉱斜坑坑口 山口県山陽小野田市本山
本山炭鉱斜坑坑口は、長門本山駅より徒歩10分ぐらいの所の住宅地の中にある。
山陽小野田市は、2005年3月22日に小野田市と厚狭郡山陽町が合併して誕生した街であるが、旧小野田市はかつては干拓と 石炭産業で栄えた町であった。しかしこの町が炭鉱で栄えた証拠は現在残り少なく、そんな中、1998年3月23日、旧本山炭鉱 斜坑坑口が市指定文化財となった。
同所は大正6年大日本炭鉱が設け、大正10年経済不況により採掘を中止したが、その後昭和10年宇部鉱業㈱が引継ぎ、同 16年に完成させ、同18年より宇部興産㈱が引継いで、昭和38年の閉山まで使用されたものである。
かつてはこの坑口の横に事務所があり、周りには炭住が建ち並んでいた。今は分譲地となり、炭住の跡に新しい住宅が建 ち並んでいる。この坑口跡がなければ、ここに炭鉱があったことなど想像ができないほどである。
その他、長門本山駅から海岸方向へ徒歩5分、きららビーチと反対側の所に、本山炭鉱から採掘された石炭を船に積み込 んだ桟橋の跡がある。昭和12年、石炭の輸送のため宇部電気鉄道が開業した現在のJR線は、長門本山駅が終点となってい るが、昔はこの桟橋までレールが延びていて、石炭を船に荷揚げしていたという。
市指定文化財 旧本山炭鉱斜坑坑口(2005年7月27日撮影)
明治20年宇部興産の渡邊祐策は本山炭鉱組合を設立以後、一の山炭鉱、本山炭鉱㈱、大日本炭 鉱㈱、宇部鉱業㈱、宇部興産㈱に引継がれるが、地質が悪くガスを伴う出水などの事故により、97名の尊い命が失われた。
この坑口は、大正6年大日本炭鉱㈱が主要運搬坑道として設け、昭和16年に宇部鉱業㈱が完成させ、昭和38年3月に坑口を閉 鎖するまで使用された。坑道は沖合約3キロメートル、最深部約200メートル、総延長約19キロメートルに及んでいる。形状は 鉄筋コンクリートづくりで側面は石組み、特徴は坑口の忍返しである。
当市の工業の基盤となった石炭産業を伝える建造物として貴重なもので、昔の面影をしのぶことができる。(山陽小野田市教育委員会)
炭住跡に新しい住宅が建ち並んでいる(2005年7月27日撮影)
現在児童公園の炭鉱事務所跡。民家の裏側は坑道が延びていた海である。
(2005年7月27日撮影)
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http://orange.zero.jp/zbc54213.wing/motoyamatankou.html
本山炭鉱の詳細は下5段目の案内説明板に詳しく書いてあります。
MAPは宇部炭鉱のページを見てください。
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本山炭鉱坑口近くの石油精製所。一部この敷地の中に本山炭鉱時代の石炭積み出し用桟橋が今も残っている。道路から見えるらしいがあまりじっと眺めていると不審者扱いされかねないのでそのまま通過に。
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ご覧のとうり現在はかつての坑口も完全に住宅に囲まれている。むろん元はこの辺り一帯全部炭鉱関連の施設でいっぱいだったことだろう。この坑口が下の説明にもあるとうり瀬戸内海の沖合い3キロまで深さ200mにまで及んでいる大斜坑の入り口である。
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坑口の後ろ側は公園になっている。つまり斜坑の上が公園と住宅と言うわけである。L写真の滑り台の右手の方がちょうど斜坑が海に沈む方向になるがちょうどその辺りにかつての炭鉱事務所があった。この公園自体はさほど大きくなく住宅開発に伴って出来た一種の子供用の公園といった感じである。周辺の町並みを見る限りこの保存坑口がなければこの辺がかつての炭鉱町であったことなど誰にも分からないだろう。
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本山地区の石炭の発見は江戸後期の嘉永年間(1848~1853)に遡り須恵村の藤島清兵衛が後の本山炭鉱沖400m付近に石炭の露頭のありことを知り小船を出して毎年夏の干潮時を利用して石炭を採取したという故事による。
明治30年宇部の渡辺祐策は本山炭鉱組合を設立以降、一の山炭鉱、本山炭鉱/株、大日本炭鉱/株、宇部鉱業/株、宇部興産/株、に引き継がれるが地質が悪くガスを伴う出水などの事故により97名の尊い命が失われた。
この坑口は大正6年大日本炭鉱/株が主要運搬坑道として設け昭和16.年に宇部鉱業/株が完成させ昭和38年3月に坑口を閉鎖するまで使用された。
坑道は沖合3キロメートル、最深部約200m、総延長約19キロに及んでいる。形状は鉄筋コンクリート造りで側面は石組み、特徴は坑口の忍び返しである。
当市の工業の基盤となった石炭産業を伝える建造物として貴重なもので昔の面影を偲ぶことができる。
市指定 平成10年3月23日 山陽小野田市教育委員会
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本山地区の石炭の発見は江戸後期の嘉永年間(1848~1853)に遡り須恵村の藤島清兵衛が後の本山炭鉱沖400m付近に石炭の露頭のありことを知り小船を出して毎年夏の干潮時を利用して石炭を採取したという故事による。
明治30年宇部の渡辺祐策は本山炭鉱組合を設立以降、一の山炭鉱、本山炭鉱/株、大日本炭鉱/株、宇部鉱業/株、宇部興産/株、に引き継がれるが地質が悪くガスを伴う出水などの事故により97名の尊い命が失われた。 この坑口は大正6年大日本炭鉱/株が主要運搬坑道として設け昭和16.年に宇部鉱業/株が完成させ昭和38年3月に坑口を閉鎖するまで使用された。
坑道は沖合3キロメートル、最深部約200m、総延長約19キロに及んでいる。形状は鉄筋コンクリート造りで側面は石組み、特徴は坑口の忍び返しである。 当市の工業の基盤となった石炭産業を伝える建造物として貴重なもので昔の面影を偲ぶことができる。 市指定 平成10年3月23日 山陽小野田市教育委員会
坑口近くの海岸ですがあるいはここが石炭を船に積み込んだ桟橋の跡だろうか?当時は鉄道の線路も長門本山駅止まりではなく桟橋まで延びていたらしい。
普通砂浜といえば砂の色ですよね。それがご覧のように黒いです。L写真には砂の部分も見えますが殆どが黒いです。やはり石炭のせいでしょうか。宇部海岸の界隈にはほとんど炭鉱につきもののボタ山が見られませんがなんでもここの場合はほぼ全量を埋め立て地に使ったらしいです。ということは写真の黒い海岸の地下はボタなんでしょうね。漁業被害も相当あったと思うのですが・・・。
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最寄の駅、JR小野田線「長門本山」終点です。道路と駅構内に柵も境目も何もありません。こんな駅いいですね。R写真の「長門本山駅」という駅名の架かっている場所を見て最初、自販機?と思いましたが待ち合い室でした。坑口までここから徒歩10分ぐらい。
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http://chuburujapan.com/blog/?p=1001
旧本山炭鉱斜坑坑口
山陽小野田市指定文化財
本山地区の石炭は江戸嘉永年間に発見され、夏の干潮のとき石炭を採取しました。
この坑口は(昭和16年に宇部礦業(株)が完成させ、昭和38年まで使用されました。
坑道は沖合約3Km、最深部約200m、総延長約19Kmありました。
この坑口は住宅街の中の児童公園の中にります。フェンスに囲まれていて中にはいることができません。
前の道が狭いので正面から全景を写真におさめることができませんでした。
では。
(撮影日2008.08.19.)
https://gataro-blog.amebaownd.com/posts/210765
本山炭鉱斜坑
先日、小野田の竜王山麓に住んでるいちさんから写メールが届きました
そこにはまだ見た事のない斜坑の坑口が写っていました
以前、小野田の本山炭鉱斜坑坑口や、本山岬から藪漕ぎをして探した地元の人たちに「ドラキュラの館」と呼ばれている炭鉱遺構をブログにアップした事があるのですが、今朝も小野田の本山まで行ってみました
ソルポニエンテさんの駐車場で待ち合わせ...
砂浜から周防灘を眺めながらオッサン2人、朝食のホットドッグと缶コーヒー
イザ... 探検に〜!
以前は竹と雑草に覆われていた所が綺麗に伐採されて、中から坑口が出てきたんだそうです
何かの工事をされてるようなので、工事中に撤去される可能性が無きにしも...?
今の内に... と、やってきた次第です
4つの坑口はかなり近い所にあって、それぞれ微妙に向きが違います
理由はわかりません
坑口はコンクリートで塞がれてるんだけど、隙間がずれてるところを見ると、閉山の時に塞いだのかもしれません
調べてみると、ここの閉山は昭和38年になっていました
海側に出てみると、船をつけた桟橋の跡?
コンクリート製の線路の枕木?
鉄製の滑車?
黒い石は石炭?
すぐ近くにはJR小野田線の長門本山駅があります
以前はココまで線路が伸びていて、船に石炭を積み込んで出荷していたそうです
折れた木の柱の上に木製の桟橋が架かってたのかもしれません
( あくまでもボクの推測なので間違ってるかもしれません )
海に向かって左の方にも何かの遺構が...
写真ではわかりにくいんだけど、このコンクリートに横に入っている模様のようなものは、木が埋めてあります
レールの跡でもあるとわかりやすいんだけど、これも何目的のものかわかりません
陸側を見ると住宅地の中に銀色の丸いもの2つが見えますか?
そこが公園になっていて、最初に書いた本山炭鉱斜坑坑口がここに保存されています
今日の日の出
歩いてすぐの長門本山駅に行ってみました
7時10分発の電車がやってきた
バス停のような小さいものがこの駅の全体像で、駅舎のようなものはありません
もちろん無人駅
ここで電車が見れるのはラッキー!
この駅に電車が来るのは1日に3回( 7時10分・7時38分・18時37分 )
位置関係はだいたいこんな感じかな
丸で囲った所が、公園に保存されてる本山炭鉱斜坑坑口
星印の所が、今回探検した斜坑坑口
赤線が、以前線路があった所です
このまま竹林が奥まで伐採されると、ドラキュラの館の全貌も明らかになるかもしれません
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